|
|
|
「ハイド・アウェイ」
キャンバス、油彩
910×727mm
2014 |
|
「ルビー・マイ・ディア」
キャンバス、油彩 910×727mm
2014 |
|
|
|
ギャラリーなつか会場風景 |
|
ギャラリーなつか会場風景 |
「転がり続けるわが想い」
表現は私の意図から離れて自ずから生成してしまうものであるから、私の想いは制作中に常に行方不明になってしまう。行方を見出すのは作者の私ではなく、観る者としての私である。表現は観る者の側でこそ成立する。転がり続け消えてゆくわが想いを空しく追い求めながら、作る〜観るを反転させつつ、私自身が転がり続ける。
|
想いの行方
俺を転がしてくれ
俺を転がるダイスと呼んでくれ
(Jagger/Richards)
|
転がる石に苔は生えないというが、転がり続けながら巌となりて苔のむすまで、巌に花の咲かんが如し………。
|
風になびく富士の煙の空に消えて
行方も知らぬわが思ひかな
(新古今和歌集・巻十七雑中1615) |
中世文学に特に興味があるわけではないのだが、時おり私の稚拙な理解力を超えて、共感する表現に出会うことがある。
西行晩年のこの歌もそのひとつ。
風に吹かれてなびく富士の噴煙のように、わが思いも虚空に消えて無化され、空そのものとなってゆく。心身永閑、無常詠嘆、玲瓏透徹、真空妙有の表現であるが、私の場合は、寂寥、朦朧たる迷いの真っ只中ともいえる。
私の想いはどこへ向かおうとしているのか?ただふわふわと漂い、いつのまにか消えてゆく、しかも想いを諦めきることもできない。
想い、思考、知覚などなど、確かに自分自身のものとして思いこんでいる諸々の精神活動、そのたどり着く先は、自分自身で決定することではない。想いは常に自分にも予測不可能、虚空の彼方に消えゆくのみ。
想いが消えて後に残るのは、どうしようもないわが身である。だが、そのどうしようもないわが身こそが、自分にとっての枷であると同時に、自分を超えて新たな生成を生み出す可能性でもあるのだ。
西行が、「鴨立つ澤の秋の夕暮れ」に知った「あはれ」は、まさに「心なき身」においてであった。
「和歌によって、虚空の如くなる心に種々の風情を彩るとも、そこに何らかの跡が残るわけではない」(西行が明恵に語った歌論)
「あはれ」とは、虚空の如くなる心、虚空に消えてゆくわが思いそのものである。
現われては消えてゆく想いに翻弄され、昏迷する。それでも消えてゆく想いの行方を絶望的な気持ちで追いかけながら、残された抜け殻としてのわが身を寄せ集め、積み上げ、身の置かれた空間に出現する風景を注視し、その振動=揺れを聴きとること。
跡形のない、鏡のような虚空としての心、とどまることなく転がり続け消えてゆくわが想い、抜け殻となった、転がるダイスとしてのわが身、そのような確定不能の状態に耐えてゆくところにこそ、表現が顕在する。
|