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澤西章展 |
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2012.6.11(mon)−6.16(sat)
ギャラリーなつか |
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≪ 万法空寂の波立ちて ≫
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会場風景
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「万法空寂12-10」
H1303×W1620mm
キャンバスに油彩
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「万法空寂12-3」
H1120×W1455mm キャンバスに油彩
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「万法空寂11-7」
H220×W273mm キャンバスに油彩
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<万法空寂の波立ちて>
枯葉の塊が風に吹かれて、苔に覆われた地表を転がりながら走り去ってゆく。あれらは、私の皮膚の下、血管の内側を転がり続ける。
人類は進化している。進化の果ては、過剰に発達し、情報化した視聴覚のバケモノと化すことだろう。彼らには、おそらく絵画などというものは、余計なものとなるだろう。進化とは残酷なものだ。
絵画は、物体的、固体的であるよりも、物質的、液体的、流動的である。そこに流れ動いているのは時間。進化からはとり残されてしまうであろう時、時のゆらぎ。
単調なコトバで、流れゆれている時を凍らせ、世界を情報化、物語化してしまうことはよいのだろうか。
安易な物語化は、内なるゆれ動きを、コトバで無理矢理押さえ込もうとしているように思える。そこに救いはあるのか?
到底コトバにはできない内なるゆれを、不安や居心地の悪さ、時には恐怖に耐えながら、感じ続けること…。
ゆれるコトバ、ゆれる波。
…罪障氷のとけぬれば
万法空寂の波たちて…
心はずっとゆれている。
心のゆれを何とかするには、脳をゆるがすほどのコトバ(表現)でなければならない。
脳が捻じれるコトバ、脳が痙攣する、捻転する表現が必要である。
世界を信じなければ生き始めることができないが、世界を信じていては生き続けることはできない。あるいは逆かもしれないが。
いずれにしても世界は、「私」を嘲笑うために存在している。
それに対して「私」のすべきことは?
世界に反抗することではなく、世界に服従することでもなく、世界からはみ出すことでも、世界を無視することでも、世界を変えようとすることでもなく…。
「私」のとるべき唯一の有効な態度は、「私」が世界を嘲笑い返してやることだろう。
オーケィ、いいだろう、いくらでも嘲笑い給え。「私」はさらに大きな声で「世界」を嘲笑い返す。
「私」を嘲笑う「世界」を嘲笑い返すために、「私」には、脳を揺るがす、脳と脳以外の総ての細胞を覚醒させる芸術表現が、どうしても必要なのであった。
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