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会場風景
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左から
「虚空08-17」 162×130.3cm
「虚空08-13」 162×130.3cm
「虚空08-16」 194×130.3cm
キャンバス、油彩 |
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左から
「虚空06-1」 91×91cm
「虚空08-7」 194×130.3cm
キャンバス、油彩
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「虚空08-12」 194×130.3cm
キャンバス、油彩
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絵画の時
物質でありエネルギーであること、崇高であり猥雑であること、空間であり時間であること、波であり粒であること、悲しみであり喜びであること……。矛盾、対立する分別を解きほぐしてゆく快楽が、生成の歓びへと転移する場としての絵画、さらに、時間の呪縛を解放してくれる絵画を感じている。
静止している絵画に、動き=時間の性質を与えるのは、視覚である。聴覚の時間感覚に対し、視覚の空間感覚について語られることが多いが、視覚がまさしく時間感覚でもあることを、絵画は示している。2次元平面+時間が、絵画の時空である。単に数学的2次元の図像は、記号〜情報であって絵画ではない。多くの論者が、絵画には時間がないなどと平然と言ってしまっているのは、絵画を情報として処理しているだけで、生成の現場として知覚する能力が欠落しているのだ。
視覚は本来、動くものをとらえる性質を持っている。動かないものに対しては、視線を動かして対象を認知する。動きをともなわずして見ることはできないのだ。生物の感覚諸器官が、自然界の変化し続ける環境に適応してゆく手段として発生したことを考えてみれば、これはごく当然のことだ。時間のない感覚などありえる筈がない。しかし人間の世界においてのみ、硬直化、肥大化した観念によって、視覚から時間が奪われてしまった。日常的惰性的生活の観念から、または専門的学術的制度的観念から遠く離れたところにある絵画こそは、時を排除することなど不可能な、現在進行形の出来事であり、生々しいカオスに満ちた時空間そのものなのである。
絵画には時間が流れている。それは眼球と絵画との間を行き来する時間であり、視線が絵画表面を滑走し、跳躍し、彷徨い、佇む時間である。さらに視線が絵画の奥へ浸透し、同時に絵画の奥から滲み出てくる時間、両者が絵画の内部で縺れ合い、絡み合う時間である。また、視る者の内面に絵画が侵入し、記憶・想像力と戯れる時間である。 絵画を視る=描くことによって、時は逆流し、現在が炸裂し、人は未来と過去を同時に体験することになる。自分の出生と死を同時に体験し、コトバの発生=人類の誕生を視る。生命体の始まりを視る。さらに時を遡って、天体の、銀河団の創生を、宇宙の晴れ上がりを視る。そしてついには137億年前の宇宙の開闢を、真空のエネルギーに満ちた時空の揺らぎ、虚空の時を、人は視ることになるだろう。
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