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澤西 章展 |
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2010.5.24(mon)−5.29(sat)
ギャラリーなつか |
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≪ 常寂光土 ≫ |
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会場風景
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「寂光 10-6 黄金の池T」 130.3×194cm キャンバス、油彩
2010年
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「寂光 10-9 枯れた滝X」 130.3×194cm キャンバス、油彩 2010年
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<常寂光土 荒ぶる浄土>
常寂光土は、滅びゆく者たちの浄土である。だがここでは、魂の救済はあり得ない。心地よい場所ではない。苦しみは苦しみのまま、穢土がそのまま浄土となる、娑婆即寂光の世界である。悲しむことが喜びであり、不快さや違和感が、生の悦楽に繋がることを知る。
常寂光土には、黄金の池と枯れた滝があり、地衣類、蘚苔類植物によって覆われている。
常寂光土では、慈しみの雨が降り続く。雨は光の針となって、私の眼球に突き刺さる。
(眼を閉じていれば、生きることは容易い)
常寂光土は、ある種の、あるいは無音のノイズが充満している。ノイズは、聴覚神経から脳に入り込み、脳細胞に付着した錆を削り落とす鑢の役目を果たしている。それは、ある時は眼を覚ませと呼ぶ声に聴こえ、別の時にはHow
does it
feel…?と聴こえる。
常寂光土では、生と死の境が溶解する。「死」を忘れずに生きるというより、死者の側から「生」を眺めるといった方が、より適切である。沼の底に身を横たえて、美しく淀んだ水の厚みを通して、はるか天空を見上げる、という状態に近い。 (私の沼には誰もいないようだ。きっと深すぎるか浅すぎるのだろう)
常寂光土は、仏教用語としては、相対的な此彼の対立を超えた、永遠・絶対の浄土のことであり、「寂」は、煩悩なく真理の寂静なること、「光」は、真智の光を意味しているが、私の想定した常寂光土は、寂(さび)の光というよりむしろ、荒(すさび)の光であり、常寂荒光土とでもいうべき世界である。私の浄土は、どこまでも煩悩を捨て去ることのできない世界であり、私の煩悩は、私の絵画に如実に現われることになる。だがいったい、私とは何であるのか、どこにあるのか?
常寂光土では、自分探しは不可能である。
(いつも…、否、時々…、これこそ本当の私であると考えてしまうことがある。けれどもそれは夢、すべて間違い……)
「私」とは、夢まぼろしの如くなるものであると、感得することから、常寂光土への(魔術的神秘的)旅は始まる。
ともにまいりましょうか
私が向かおうとしている 常寂光土へ
すべては空 煩わされるものは何もない
(色即是空 空即是色 心無?礙 能除一切苦)
常寂光土 永遠の瞬間
……クランベリーソース。
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