母袋俊也展
2003.2.24(mon)−3.15(sat)
ギャラリーなつか&b.p
略歴
2014 2011 2009 2007 2005

「TA・SHOH−Qf・SHOH」
≪掌≫

ギャラリーなつか 会場風景/母袋俊也
ギャラリーなつか 会場風景
"M332 TA・SHOH <掌>"/母袋俊也
「M332 TA・SHOH <掌>」
アクリル・油彩/綿布
H220×W1757cm (14Panels)
2003
ギャラリーなつかb.p 会場風景/母袋俊也 "M333 Qf・SHOH <掌> 1"/母袋俊也
ギャラリーなつかb.p 会場風景

左「M334 Qf・SHOH <掌> 1」
アクリル・油彩/綿布
160×160cm
2003

「M333 Qf・SHOH <掌> 1」
アクリル・油彩/綿布
160×160cm
2003




<出品作品リスト>
1 M332 TA・SHOH
2 M333 Qf・SHOH 掌 1
3 M334 Qf・SHOH 掌 2
4 drawing Qf・SHOH
5 drawing Qf・SHOH(Z11+13)


“TA・SHOH―Qf・SHOH”
<絵>/<絵画>に寄せて


絵を描く者にとって、絵は正しくなければならない。

絵画が、平面上で結ぼうとしているのは決して空間などではない。それは、きっと真理とか真実といった確かなる何ものかに違いないのだろう。だがそこに現れる像は、どこまでいっても仮りの像、似姿であり、“真―虚”、このパラドックスを絵画は生きるのである。それは絵画を困難の内側に位置づけると同時に、しかしそれが故に本質に触れうる可能性をもひらいているのである。
フォーマートと精神性の相関をメインテーマに僕は制作をすすめてきている。余白と色柱の複数パネルの横への連続性を特徴とする横長フォーマートの作品群が、当時アトリエのあった立川の水平性の風景から“TA”と名付けられ、体系付けられてからも久しい、一方、2001年以降余白を排除し、正方形に色彩が充満する“Qf”(Quadrat/full)が異なった原理のもと新たな試みとして続けられている。今回の発表の一つのアスペクトはその対峙である。
さて前世紀、<絵画>は、分析、批評精神によって総体の顕現化を実現した。それは絵画の正当を示し、計り知れない果実を美術史に記した。しかし一方、殊に20世紀後半、我々は一枚の<絵>も遺さなかった様にも思えてきてしまうのである。この事は極めて大きい。総体に対して無自覚な<絵>も、総体認識を備えているだけの<絵画>も、ともに不十分なのである。もしそうだとすると、絵画は回復を急がなければならない。そして取り戻さなければならないものとは一体何なのか。
タイトルのSHOHとは掌である。それは、まだペレストロイカを迎える前のソ連時代、ノフコロード、暗い鉛色の空のもと、乏しい陽光の中で観たA・ルーブリョッフのそれであり、また宇治で見上げた定朝のそれらである。それらは勿論美しい。だが僕が観ていたのは美しさではなく正しさであった様に思えるのだ。
真理や人生と深く関わるのは美術だけに与えられている事ではない。ただ論理的整合のもと、一つの解答のみを求める自然科学、あるいはイデオロギーや信仰が時として犯してしまう排他性とは異なり、美術は普遍性のもと多様を受容する。
<絵画>の使命は、その総体であると同時に一枚の<絵>として人々の前に“仮りの像=真”を示す事であろう。それはちょうど風景がそうである様に、歴史の分節を超え、其処に在り、其処で生を営む人々を見守り、勇気を与え続けるのである。
絵画こそが、その力を持っている事を僕は信じ、これからも絵画の伴走を続ける。


2003.2 藤野にて
関連文献一覧へ

<2003年個展 関連文献>
2003.2 「母袋俊也 TA・SHOH―Qf・SHOH」 個展カタログ(ギャラリーなつか)
2003.2 「TA・SHOH-Qf・SHOH <絵画>/<絵>に寄せて 個展「母袋俊也 TA・SHOH―Qf・SHOH>」カタログ/自筆
2003.4 「母袋俊也 フォーマート探求と統合の場所 美術手帖(p.171-174)/鷹見明彦

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