母袋俊也展

2014.3.31(mon)-4.19(sat)
ギャラリーなつか&C-View
略歴
2011 2009 2007 2005 2003
≪Qf・SHOH<掌>90・Holz 2009〜2014≫

"M502 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz15"/母袋俊也 母袋俊也
「M502 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz15」
アクリル、板
90×90cm
2014
(左上)「M434 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz3」 
アクリル、油彩、板
90×90cm
2011
(右上)「M499 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz12」 2014
(左下)「M498 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz11」 2014
(右下)「M500 Qf・SHOH〈掌〉 90・Holz13」 2014
アクリル、板
90×90cm
2014
会場風景/母袋俊也 会場風景/母袋俊也
会場風景 会場風景

母袋俊也は画面のフォーマートと精神性の相関をメインテーマに「TA系」「Qf系」など体系的に絵画を追究している。
横長フォーマート「TA系」絵画は、風景を仲介とし「絵画のための見晴らし小屋」と連携、また全く異なる原理のもと〈掌〉をモデルに正方形フォーマート「Qf系」絵画は展開してきた。

本展は、正方形フォーマート「Qf 系」の発表である。
正方形(=Quadrat)に色彩と筆致が満たされる(=full)ということで命名された「Qf系」は2001年から開始された。イラク戦争突入前夜の2003年、画面内にはルーブリョッフのイコン、阿弥陀如来像の掌などの形象が現れ、それらは水平軸にも垂直軸にも中心性を持つ正方形フォーマート内を色彩と筆致によって旋回し集中していく。
2009年以降、一辺90cmの板を支持体に側面を削り取り、「像の膜状性」を顕現化する試みの「90・Holzシリーズ」がすすめられている。
2011年3月の出来事は絵画の位置と役割を改めて考える契機となり、母袋の考える「〈現実・リアルな世界〉と〈実体を持たない精神だけのもう一つの世界〉との間にわずかに生じる重なりの場と絵画の薄さ」への関心は、「インスタレーション−浮かぶ像・現出の場」として昨年11月に青梅の旧織物工場で試みられた。
それは闇と光の小空間に2分割された《小屋・現出の場》を設営、暗室内に絵画作品《Qf・SHOH〈掌〉90・Holz 5》を掲げ、背後の壁面上部には《Himmel Bild》(=天・空の像)を展示するものであった。

本展は、2009年から2014年に描かれた、画面表面が壁面から浮かび上がるかのように絵画の持つ”膜状性”の顕現化を試みる絵画作品「Qf・SHOH《掌》90・Holz」18作、プランドローイング、記録動画で構成される。



【関連エッセイ】

「絵画の薄さ―膜状性」

その日以来、その日を契機にそれぞれの専門性は、厳しくその根本と胆力を問われている。
そんな中、圧倒的な現実を前に、聖顔布を起源の一つとする絵画もまたその使命が問われている。

そもそも、その絵画は観者にとってどのようなものとして対象化され、どこに現れているものなのだろうか。

絵画は実体であり虚である両義を生きている。
時にそれは現実から乖離する絵空事ともなり、また現実・リアルを超え、実体性と超越性を確保することも可能とするのだ。
絵画、それは実体そのものではなく、空間性に働きかける像、薄い膜のようなものであり、もともと現実、リテラルの側にはないのである。

僕は、僕らの生きるこの現実・リアルな世界は、この世界と非常によく似たしかし実体を持たない、精神だけのもう一つの世界と隣接しているように感じている。
それは、真理や普遍の世界であり、黄泉の国、まだ生まれてこない人々の世界で、その世界との接近を人々は崇高とか超越と呼んできている。
そしてこの二つの世界は、ほんのわずかに重なり合い、そこにすき間を生じさせている。
その場は、この二つの世界の両義を活きる場であり、そここそが像が現出する場である。像はそこにすべり込み、イコンが聖堂内の背後からの光を受け静謐に輝くように、あるいは平等院の丸窓に阿弥陀如来の像がくっきりと浮かび上がってくるように、視線をむける観者にむけてメッセージを発するのである。

そのために絵画の薄さは極めて有効なのである。
                                                                           2014年1月  母袋俊也



 (「〈Qf・SHOH〈掌〉90・Holz−現出の場―膜状性〉展に寄せて」2011.6.13より抜粋)

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