『いちぬ〜けた。』(21世紀芸術登場の予感)
「いちぬ〜けた。」夢中で遊んだ子供時分の夕暮れは、そういって家に帰ったものだサブカルとオタクが電子技術と戯れた、モードを煽るだけの夕暮れた今日(きょうび)の現代美術のテイタラクをみると、まさに「いちぬ〜けた。」という気分だ。確かに喧しいグローバリズム(資本主義)の本質は煽りの文化だと思うが、「よしてくれよ。」とせめて芸術関係者にはお願いしたい。長い歴史を見ればお分かりだろうが、我が国の長い芸術の伝統は無常観(虚無ではない)に裏打ちされた本来の「鎮めの文化」ではなかったかと私は考えている。
日本の近代化は科学技術とそれを生み出したキリスト教的世界観の受け入れであった。明治開国以来のその成果を端的に象徴するのは結局、都市としての東京の景観である。近づくと美しくモダンなビルも、一度、首都高を走ってみるがよい。とてもじゃないが醜悪の極みである。こんなものを得るために130年この方、我々の父祖は何度も戦争をし、あげく2個も原爆を落とされなければならなかったのか。どこかで我々はボタンを掛け違ってしまった。
芸術も現実も同じである。新しさ(創造性)を価値に新奇さを競った現代美術はもう終りにしても良いのではなかろうか。
現代美術はなくなっても美術はなくならない。新たな美術が生まれるだけである。(正確に現況をいえば、現代美術は先人の前衛精神を薄めて、よりポピュラーなものとして流行のモードやファッションとして当たり前となった。例えるなら、新奇なものを見てちょっとマセた中学生なら、「これって現代美術でしょ。」と言い兼ねない程に人々に消費される当たり前の文化になったということである。)
先輩の苦労をおもえば前衛の現実化は慶事であるが、私は新しさ競争にもう飽きてしまった。芸術は。本当は「人が持っていたのに、無くしてしまったものや忘れてしまったものに気づかせてくれるもの」ではなかったかと深い反省のため息を付く。
私は幸いにも展覧会に恵まれて、いくつもの国で多くの作品発表の機会を得た。その経験は私につくづく美術って彼らのもの、彼らの文化であり、キリスト教文化なのだ。と気づかせた。勘違いは止めにしたい。時代を共にする現代美術といっても我々は彼らと同じ土俵に立ってはいない。文化輸入業者としてインテリは、だから日本は遅れているというが、我々ににキリスト教の一番奥の奥など到底分かりようもないように、西洋美術の奥底は分からないと知るべきである。
しかし、だからといって怯むことはない。同じ美術という言葉を使ってもズレがあるだけなのだ。ただ我々には我々の歴史を持った美術があり、それを為せば良いのである。と気づくべきだ。いま、私達に必要なのは、排他的国粋でも偽善的自虐でもない健康なナショナリズムではないだろうか。
都市は「手の入り過ぎた自然」である。自然保護者が主張する自然は「手つかずの自然」である。近代は「手つかずの自然」から進歩と経済発展を御旗に都市を作り上げた。現代美術もまた都市の文化である。しかし、近代は人間や社会を人間が頭の中で描いた通り計画し改造できると考えた思い上がり文化である。冷静に考えてみるとよい。その間に人為と自然が分かちがたく一つになって生まれた景観としての「手の入った自然」があるはずである。田園や里山に代表される田舎の景観に理想を見る「手入れの文化の華」を我々は持っていたはずだ。芸術も同様である。自己主張の「手の入り過ぎた」作品を克服するのが21世紀の課題である。人々は分かりやすい芸術など求めていない。本物がほしいだけだ。
むろん、すでにその芸術は始まっている。ただまだ、誰も適切なネーミングをしていないだけだ。それだ現美術の次にくる21世紀芸術であろうと私は予感する。時代はあっという間に変わる。21世紀芸術が素敵な名前を持った瞬間に人々の意識は変わる。世界は変わる。
<人為と自然が分かちがたく一つになったもの>それがアートであると私は考えたい。私が野外で多く作品を提示するのは、その構造を素直に見せられるからである。奇岩や古木に神が憑依(ひょうい)して降りるように、作品は生命的で深い何かが憑依なければならない。誤解を恐れずにいえば、美術は神(宗教)の下僕で良いのだ。近代の呪縛を逃れると肩に力を入れずに楽にそう思えるようになった。つまるところ、今人は展覧会という芸術発表の形態を誰も疑わないが、近代芸術の特徴は旧来の礼拝的美術から展示美術への以降であり、展示とは一等賞を争うコンペティションで煽りの文化そのものだ。よしてくれよ。
すれっからしの都市芸術(現代美術)から生まれるものはニヒリズムである。笑われるが私は真剣にこれからの美術が生まれるフロンティアは田舎だと信じている。人生には信じるに値する崇高な何かというものが確かにあるとまだ私は信じている。
現実が芸術を追い越して久しい。情報はその現実すら置いてきぼりにする。鋭敏な感性で時代の先端を行く芸術家は死に絶えた。いま、芸術家は時代の殿(しんがり)で、「オーイ、どこいくんだよ〜。」と呟くトボトボと静かに遠くに行く人である。そんな人に私はなりたい。
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