上之空似 |
いきなり本題に入るご無礼、お許し願いたい。さて、身体と名前というとりあえずの境界線としてのマ
スクを与えられて私は私のふりをしているが、本当に私なんてものがあるのか。マスクの中身はただの空
洞に過ぎず、何人かの小人達がそこに出入りしては彼らが都度の私を編集して作り出しているだけなので
はないか。もう一昔以上も前になるが、スパイク・ジョーンズ監督の映画『マルコヴィッチの穴』(註1)
を観てそんなことを考えたことがあった。
誰かと会話をしているとき、また誰かの書いた文章を読んでいるとき、また誰かの描いた絵を観ている
とき、ときとしてその内容や表現にその人でないものを感じることがある。確かにその誰かが表現してい
るということは、それはそれで間違いないのだが、それの隙間から他者の視線や、思考や、表現の方法な
んかがひょいひょいと見え隠れしてきて、その人のものでないという感じ。ときには他者に憑依されたが
ごとく、丸ごとその人らしさが消えてしまったという感じ。
また自分が何かを表現するときにも、私の中に複数の他者を感じていることがある。それは明確な合議
によってなされる思考の編集であることもあるし、一人の他者が全権を掌握している場合もある。では全
権を掌握した私の中の一人の他者が私そのものなのかというとそうでは無い。やっぱり他者なのだ。
私の中の闇を掘り下げていくと、そこには多くの他者がいる。それは、かつて読んだ本の筆者であった
り、観た映画の監督であったり、両親であったり、学校の教師であったり、同級生であったり、子供の頃
に可愛がってもらった近所のおじさんやおばさんであったり、物語の登場人物であったりと、死者、生者
、想像上の存在者と様々だが、そうした人々が常に私という入れ物には流れ込んでいる。私という確固た
る存在があり、その存在がそれら他者の影響を受けているというのではなく、むしろ主導権は彼らの側に
あって私という存在を編集し仮象しているのではないか。そうなると私は入れ物ですらなく、容器ですら
なく、ただの水路、他者の流れ込む水路に過ぎないのではないか。私は生物としては主に皮膚に、社会的
には主に名前で区切られてはいるがそれはしっかりと閉じた容器というより、単に水路が連結して立体化
した海綿状のもの、通過点としての管に過ぎないのではないか。そもそも身体にしたって口から肛門迄の
消化器官はまさしく長い管として外界と繋がっている。そう、身体とは管なのだ。
そんなことをいちいち考えているのは日常の生活をして行く上では余分で面倒なのでなるべく考えない
ようにしながら属する社会の習慣に即して暮らしてはいるが、それでも完全には振り切ることの出来ない
ことである。
確かにこの手で描いたものであっても、それを描かせたのが自分というものなのか。そのことを含めて
考えてみると明確に自分が描いたと言い切ることはとても出来ない。それでもその人らしさというものは
人みなそれぞれに有り、だからやはり同じように私にも私らしい感じというのは他者から観れば確実に有
るはず。しかし、その私らしさは本当に私というものの存在を証明してくれるのか、また本体なのかとい
うとそうではないだろう。せいぜい私の中の他者が作り出した私という最大公約数的な仮象を人がそう感
じているだけなのではないか。つまり私の内部においては、編集作業を通して、都度私という最大公約数
が更新されているだけなのではないか。私の中をどんなに掘り下げて行っても私というものの核、存在の
小部屋、あるいは魂と呼ばれるような何か、には永久に辿り着けない。機械の中に幽霊を探すようなもの
だ。そうだとすると、それはそれ程本質的に大切なものなのだろうか。
名前というものを考えてみようか。例えば個展などをする際に平気で「○○○○(←自分の名前)展」な
どとDMに表記してしまうが、これは本当にはなにかとても変なことではないか。自分の名前に展をつける
なら会場に自分自身の肉体か名前を書いた紙かがぶら下がっていなければならない、いやそれは冗談とし
ても、繰り返しになるが、そもそも作品自体本当に全てを自分で作った物なのか、ですら実際怪しいでは
ないか。通常は個人の名前と一対になって語られるオリジナリティという概念に私は疑問を感じる。
名前が個体としての肉体にすっぽり被さっているのが不思議だ。肉体の消滅とともに名前が消えてしま
うのも不思議だ。伝統芸能や伝統工芸などの分野ではひとつの名前が時空を超えて幾つもの個体に被さり
技術や精神が伝承され、個体の死とともに再び別の個体に受け継がれ、あたかも転生のごとくその名前自
体がひとつの人格として代を重ねて生き続けて行く。そこではひとりひとりの存在は水路ではあるが、そ
れでも一瞬の美しい容器としての姿も見せてくれる。そして人はその美しい容器を讃えて名人とか名匠と
か呼ぶのだろう。それはそのままブランド名としてひとつの権威となり、ときに内容と無関係に一人歩き
をしてしまったりもすることもあり、パーソナルな作家個人名で流れを括っていく史観がそれに加担して
いることは非常に問題のあるやり方だとは思うけれども、それについてはここでの主題目ではないのでま
た改めて別の機会に書くことにする。それはともかく、その周囲には美しい容器になり得なかった多くの
アノニマスとしての水路が連結して広大にひろがっている。人は自分だけは変わらず個として継続し、世
界が変化している、その変化の中を個として通過しているのだと錯覚して生きているが私は実際変化して
いるのは自分の方なのだと思う。そうしたわけで、慣習上やむなくそうしているものの、私は私の名前を
私の作品やDMに冠するのに抵抗を覚える。名付けるのは他者の権利であって、私の権利ではない。本当に
は単なる水路である私は名前を持たない存在なのだから。
私のやっている絵画というものは伝統芸能でも伝統工芸でもないが、結局は同じことなのだと思う。私
の底に潜っても、そこに私の存在の核などというものはなく、迷路のような広大な水路がひろがり、多く
の他者が棲んでいる。私というちっぽけな容器の底を抜ければ私は私の外側に出て他者となる。『マルコ
ヴィッチの穴』に登場するマルコヴィッチの頭の中からどこか見知らぬ土地に突然放り出される人々と同
じように、だ。
簡単に言ってしまうと、絵画制作というものに関して、私は私単独で出来るものではなく誰かが作り上
げたシステムとか装置を自由に改造して、また次に受け渡すゲームのようなものだと考えている。私の作
るシステムや装置には過去に生きた先達のシステムや装置だけでなく同時代人のそれも流用され組み込ま
れている (註2)。ときには他者が明確に意識化していなかったシステムに潜む別の働きや価値を発見する
こともあるだろう。それは当たり前のことだ、私の中に他者が棲むように他者の中にもまた別の他者が棲
んでいるはず、なのだから。私は様々なシステムをスキャンして私のデータベースに読み込む、誤読も回
避せず読み込む。いやここで実際に大切なのはむしろ積極的な誤読かもしれない。それらは絵画に限定さ
れず様々なジャンルに及ぶ。私はいわばサンプリングしたデータの編集者だ。私はそうしたシステムの組
み替えの実験において絵画という装置を私の小さな仕事場で組み立てたり壊したりして過ごすのが大好き
だ。上手く編集するともしかすると今迄観た事も無いやり方を発見して素敵な装置が作れるかもしれない
と期待をしながら実験を繰り返す。その装置が世界の見方を広げてくれる探査装置、探査の乗り物になる
と良いなと思いながら。今のところ残念ながら構築したデータベースの規模はまだ小さく、拙い編集技術
しか持たず、装置を組む技術も僅かしかない私にはこれといったシステムやちゃんとした装置を組み上げ
られていないし、今後実現するという保証もまったく無いが、いつか誰かが組み立てることになる素晴ら
しいシステムや装置の小さなネジがひとつでも作れることが出来るなら、それだけでも充分幸福な仕事の
はずだ。
これは今日格別珍しい考えというわけではないが、創造というのはやはり高度な編集作業なのではない
だろうか、と私は考えている。目的として編集作業があるのではなく、もちろん手段として手法としてと
いう意味で、だ。非常に上手くいった、洗練された編集作業がイノベーションを引き起こすのだと。それ
は度重なる交配の果てに現れる突然変異種にも似ていて、輝かしいイノベーションはまるで先行するシス
テムや装置とは無関係に突然天啓を受けて出現したかのように見られがちだが、実際はそうであることは
稀なことで、大抵の場合はおびただしい数の実験の積み重ねによる結果であることは丁寧に歴史をみれば
明らかなことだ。私はこれからも許される限り、私の中の他者と根気強く付き合いながら、アノニマスな
水路として楽しくささやかな実験を続けて行きたいと思う。
最後に今回の展示について簡単に触れておく。正方形の画面に油彩でベーコンの断面や動物の表皮のよう
な感じのものを描き、マスキングの技法で目の部分を楕円に抜いてそこに赤い目玉を描きいれたものを出
す予定。絵画自体がひとつのマスクの見立てで、穿った穴に目玉を置いたという案配だ。題して『BEHIND
THE MASK』タイトルはもちろんあのYMOの楽曲より拝借したもの。
ところで、油彩画というのはどこか肉に似ている。肉か野菜か、どちらに近いかと問われれば肉。動物的
か植物的かと問われれば動物的。油絵の具のあのずしりと重く、粘りが強く、油脂の行き渡ったてらりと
した質感は肉そのものだ。だからブラッシュストロークはベーコンに似ているし、ペインティングナイフ
で厚く盛ったパートは肉の塊のように見える(デ・クーニングやルシアン・フロイトのマティエールのあ
の強引なまでの肉々しさを思い浮かべてほしい、またロイ・リキテンシュタインがブラッシュストローク
の作品において何をそこから抜き取ったのかについても)。世に肉付きの面というものがあるが、この
『BEHIND THE MASK』においてはマスクの表面に肉が載っている形。これは表裏が反転した肉付きの面と
も言えるし、ベーコンという肉の塊の断面が再度表面として扱われているという点を加えれば、ここには
二重の意味での反転がある。ひとつの皮膜、境界面としてこのマスク/絵画はこのように反転消滅を繰り
返しながら限りなく零に近い極薄な存在としてある、といえよう。『BEHIND THE MASK』のプロトタイプ
は私の双子の兄弟であり、前世でありドッペルゲンガーでもある上野慶一の2012年発表の油彩画『マルコ
ヴィッチの穴と双子の天使』であり、これはその改造版試作一号機といえる。というわけで、この実験は
まだほんの入り口、端緒についたばかりなのである。いささか冗長になりすぎた、賢明な諸君は馬鹿な絵
描きの能書き、戯言などまともに受けては駄目駄目と先刻ご承知馬耳東風とは思うが、何事も用心が肝心
、罵声と半畳が飛ばない内に前口上はこの辺で切り上げてとっとと私は袖に消えるとしよう。
2013年11月30日
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(註1)『マルコヴィッチの穴』
チャーリー・カウフマン脚本、スパイク・ジョーンズ監督の長編デビュー作。実在の俳優ジョン・マルコヴィッチの頭へと繋がる穴を巡る物語。人形遣いのシュワルツと妻のロッテが偶然に俳優のジョン・マルコヴィッチの頭の中に繋がる穴を見つけたことから始まる不条理喜劇。その穴に潜ると誰でも15分間だけマルコヴィッチになることが出来、その後どこかの高速道路脇の空地に放り出される。私は個人的には、この物語の設定には押井守監督のアニメ『イノセンス』
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』における、「義体」、「電脳」、「ダウンロード」、「ゴーストハック」、「バックドア」、「目を盗む」、等の用語を使用した物語の設定とどこか共通したものを感じている。詳細に比較検討したわけではないが、なにしろシュワルツの職業は「人形遣い」なのだから無関係のはずはないと思うのである。
他にも洋画邦画問わずこの手の設定の映画は結構多いが、邦画としては、黒沢清監督の『CURE』『カリスマ』『ドッペルゲンガー』等や、青山真治監督の『ユリイカ』も他者と自己の境界が揺らぐという、やはり設定としては近しい系統に属するように思う。いずれも『マルコヴィッチの穴』同様に、どこか喜劇的であり寓話的な印象の映画である。こうした系は哲学的深読みを誘発するけれど、単純にアホな喜劇として楽しんだって別段かまわない、というところが表現としての懐が深くて良いのだ。
(註2)過去に生きた先達のシステムや装置だけでなく同時代人のそれも流用され組み込まれている
セザンヌの遺産を引き継ぎ、そのシステムを過激にかつ局所的に展開したキュビスムというシステムの運用において、一時期ほとんど見分けのつかない程に似た絵画装置を組み立てたジョルジュ・ブラックとピカソのことを考えてみよう。二人のキュビスムの研究時代、実際の絵画装置の組立工であるブラックやピカソの名前はキュビスムというシステムの裏に隠れてアノニマスとしての存在となっているように見える。ここでは主役は画家という組立工ではなくシステムそのものこそがその座にいる。
また余談になるが、近年贋作(弟子の作品)と疑われるようになったフランシス・ゴヤの『巨人』は、学術的には確かにゴヤの真筆でないのかもしれないが、どうみても紛れも無くゴヤのシステムを使用した傑作絵画装置であり、とても乱暴に聞こえる事を承知の上で言うが、仮に組立工が弟子であっても、ゴヤの作品といって問題無いように思う。特に工房で徒弟制度の元に多くの画家が制作をしていたこの時代、画家の名前などせいぜい工房の屋号、ブランド名に過ぎず、作品は共同制作であったはず、今日のような認識で真筆贋作という考え方を適用することにどれほどの意味があるのだろう。
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