上野 慶一 |
あるとき、ひとりの画家がキャンバスをナイフで切った。傷口はゆっくりと開いてひとつの眼となった。その眼は二.三回瞬きをすると、長い長い眠りから醒め、世界というものを再び見渡し始めた。
その眼はかつて、雪舟の眼であった、利休の眼でもあった、またある時はアッシジの画家ジョットの眼であった、そしてまたある時はモネの眼となって眩い睡蓮の水面をみつめていた、またある時は地球を周回する人工衛星のカメラの眼でもあったし、絶望の時代、柔らかな色彩のイコンを描いたルヴリョーフの眼でもあった。そしてまた、カタコンベの柱や壁に秘かに禁じられたイコンを描いた地下の無名の絵描きの眼でもあった。眼はずっと眼としてここには記述しきれないほどの幾度もの転生をして、あらゆる時代と土地の光景を見続けてきた。
そうした転生の記憶はあまりに膨大で、すべてを思い出すことはとても出来なかったが、長きに渡って見るという能動的な立場に慣れていたせいか、こうして絵画になって人に見られるという受動的な立場というのは、自身がまた見るという存在でもある眼にとってはなんとも落着かない初めての経験なのであった。ともあれ21世紀初頭の月の明るい夜に東方の画家のナイフによって視線の水路がこうしてまたひとつゆっくりと世界に向けて開かれることとなった。(旧ルヴ記4章21節)
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あいかわらずの誇大妄想かも(笑)。さて、今回出品の絵画には二つの特徴がある。ひとつは「見つめ返す絵画」ということ。画面に眼が開いているので、この絵を見るものは逆に絵から見つめ返される体験をするだろう。視線を循環させる装置としてこの絵はある。二つ目は「多重基底面(支持体)の絵画」ということ。画面の中に再度菱形の基底面が描かれ、画中の画、入れ子構造の絵画となっている。今回からシリーズのタイトルに従来のface/surfaceにさらにinterface(=複数のシステムの境界面)が加わったのはこの多重基底面構造の採用によるものだ。絵画自体が絵画であることを意識する、バロック的自意識の絵画といえる。150号を始めとして油彩大小10点を展示予定。 |
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