−とき−
「とき」は「時」でもあり「刻」でもある。「時間」でもあり「時刻」でもある。
普段、何気なく使っている「時間」ということば。 辞書をひくとこれはtimeの訳語であるらしい。欧文のややこしい時制に出くわすと私は無条件に逃げ出したくなるのだが「時間」の概念のとらえ方は欧米のそれとはかなり異なっていると思う。
「とき」の計り方、感じ方はさまざまだ。
ふと、天を仰ぐ・・・と、そこには月が見える。月の満ち欠けがときの経過を知らせる。月の満ち欠けだけを基準にした回教暦は、地球が太陽を一巡する太陽暦の一年とはまた違う。また、月の満ち欠け、潮の満ち干といった自然のサイクルに支配されて生命時計は動いている。
自然の移り変わりのうちにも目に見えないときの動きを感じとることができる。
植物はまさに自然の時計である。
動き 光り うつろい 枯れていく ― 生き物の 自然の 宿命
光の一様相である色は、夜から昼へと空の色を彩り、生き物の命の上で変幻する。
―色が時系列の上で変容する―
動くものも静止の状態であらわす平面絵画で〈写生〉とは連続した空間と時間の断面を切り取ったものである。この動かない平面の中に、ときの移り変わりを空間の位置に置きかえて示したい。
ある一瞬の、私の中に刻み込まれた「そのとき」「そのとき」の風景を絵巻のように繋ぎあわせていく。単なる記憶の断片としてだけでなく、この「とき」の移り変わりが過ぎゆく時間に危うく流されていかないように作品にとどめておきたいのである。
時間のとらえ方が短縮しつつある現代、何もかもが目まぐるしく動く。
もっとゆったり構えたっていいじゃないか。自分の足元を見る余裕くらい・・・
などといっている間に私は時代に取り残されていくのかもしれない。 |