<現在> 私は、現在手漉き和紙に墨を用いてドゥローイングしている。そして、素材である和紙の美しさを損なわず生かすよう心がけている。私の作品には、様々な線がリズミカルに透明な筆跡で描かれる。そして繊細な濃淡(墨による)がほどこされてはじめてその筆跡が表出してくる。色彩を用いず出来るだけ押さえた表現で思索的、瞑想的な作品を目指している。そして、鑑賞者の細やかな感性を揺さぶることができればと考えている。
和紙は、主にコウゾ、三椏を原料に作られる。また麻や竹を用いる場合もある。いずれも日本においては、どこの山にも生育可能な低木で、人工的に栽培可能なものだ。そしてこれらをパルプ原料とすることも比較的簡単で身近な自然素材として優れた特質を持っている。長い歴史の中ではぐくまれた和紙と、これを誕生させた先人の偉大な知恵とそれに関わるあらゆる人々すべてに感謝と敬意を忘れずに描く事を大切にしている。
私は、自分の表現方法がエコジカルな生活スタイルの復活とその重要性が問われている現代社会への問題提起ともなると考えている。また何より和紙には「素」の美しさがある。光を迎え入れ内に「散光」し柔らかい空間を演出する。和紙そのものが表現者であり、自分は、和紙と一種のコラボレーションをしている。そして私が作品の題名に自然現象を多く用いるのは、和紙と墨と水が織りなす現象も私の重要な表現要素でそれを注意深く観察して表現しているからだ。
<これまで>
私は、20代の頃主題に出来るだけ「日常的」なものを選び描いた。キャンバスを1枚の板や丸太に見立てた作品や、中が空洞になった「木の皮」などどこにでも転がっているようなものを大画面に油彩絵の具を使用し描写した。「板」と題された作品は、キャンバスそのものが板に見える作品で、油彩絵の具で木の質感を再現するこころみであった。制作の時は作者の個性や、パーソナリティーといった個人的痕跡をとどめないことを意識した。表現した板や丸太には、特にモデルはなく自分のイメージだけで作り上げるため、かえって情念が封じ込められた。「木皮」の作品は、「板」の作品の平面空間と違いパースペクティブな空間を創出していた。そのためダイナミックな表現となったが1980年代日本でも注目を集めたスーパーリアリズム作家と同一に評価されたり、描写技術のみが評価されたりして自分が目指すものとのギャップが生じ20代の後半にはこの表現から離れた。
それからは、また平面空間を意識した「壁」というシリーズの作品を制作した。大理石の粉末をメヂュームで練りペースト状にして何十かに塗り重ね固めた後にそれをまた研磨して削り取る表現で塗り重ねたものをまた削り取るという行為を重視したもので「The
wall」「記憶の断層」などのシリーズとして油彩画、モノタイプ版画、シルクスクリーン版画等で表現した。また、ガラス板を高温で変形させ平面に突き刺したりした半立体、レリーフ状の作品など試行錯誤の時期が40歳前半まで続いた。またこの時期和紙を用いた作品も平行して作るようになった。
現在に続く手漉き和紙の作品は45歳頃から始め現在に至っている。
<生い立ち>
私の父は、若い頃銀行員であった。父の仕事は、転勤が多くそのため私は、4,5歳頃、伊予三島市(現在の四国中央市)にすんでいた。ここは、豊富な水量を背景に昔から製紙業が盛んで、今も大手の工場が多くありパルプの独特のにおいを放つ街だ。そして社宅のとなりに手漉き和紙の作業場があったそうだ。今から四十五年ほど前なのでまだ、手漉き和紙の会社も多くあったようだ。母親が私を探すと決まってその作業場でいてこの和紙作りを楽しそうに見ていたそうだ。その後父は、伊予三島市の製紙会社へ転職し家族は、郷里の香川県に戻った。今も紙を作る父親の苦労と厳しい姿勢の記憶が鮮明にある。紙に対する美しさや、ぬくもりに似た感情と敬意といった感情はここから来ているように思う。その後地元の小中学校、高等学校に学び幼い頃から好きだった絵画を本格的に学ぶため美術大学に進学するが、今思うとものづくりに真摯に取り組んでいた父親の影響が大きかったのかもしれない。
<現代美術としての検証> 私は、コンテンポラリーアートは、表現世界の自由を探り帰属意識を持たない「個人に基づく価値の構築」であると考える。個人の思考は、他者の共感を呼び共鳴することはあっても同化するわけではない。個は個のまま存在し続けまた消滅する。しかし個は、個としてだけ存在することはあり得ず、他者との関わりや影響を常に受けている。絵画表現におけるジャンルも「個」にひそむ互いに共通する要素を捉えて分類して行われる訳だがその「個」にとってもっとも重要な要素をとらえて分類されなければその作品の意図するところは、正確に捉えてもらえない。私が行った5年あまりの絵画的実験と表現。つたないものではあると思うが今まで述べてきたように素材選定の主たる要因は、「記憶」「潜在意識」である。表現の手法は、それまでの制作の「経験」からくる問題意識「描画行為の純化」を目指した。その結果ミニマルになり、「素の美」「素材の美」が表出するものとなった。このことは、日本人に共通する「民族的美意識」につながるところがある。
私が表現素材として使用する「和紙」は、伝統的であり先人の偉大な知恵によって生み出された物である。それを生かして表現することは、現代の同時代的芸術となり得るか。私は、伝統的素材による表現と「個人に基づく価値の構築」との関係を、「個」と「集団」、「民族主義」と「グローバリズム」この相反する問題と共通する研究課題と考えている。これらは、現代における世界的な問題であり同時代的問題であることを考えると、絵画表現者として以上の問題を研究することは、研究主題として価値あるものになると思う。 |