上野慶一 略歴
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【RUB-HI  face/surface】 Vol.0 覚醒編
-容器のマニエラ、あるいはルヴハイの眼球譚-
上野 慶一 
■さてと

 むかしむかしのこと、こうこうせいのころだ。さいしょにちゅうしょうひょうげんしゅぎといわれるたいぷのかいがをみたとき、ぼくにはそうしたえがよくわからなかった。ぼうようとひろがるしみやふであとやらなまのえのぐをいくらみつめていてもさっぱりとほうにくれるばかりだった。このえをかいたひとはなにをしたかったんだろう?いろいろなひとがそれについてかたっていたり、かいていたりするのでよんでみた。でもよくわからなかった。そしていまでもほんとうのところはなにもわかっていない。

 ははは、とても読みにくい文章だ。このままだと読むのを放棄する人も出て来そうなのでこの後はちゃんと漢字まじり文で書こう。時代はさらに遡り僕が小学生のころの話だ。学習塾の夏期講習に行って、とっても素敵な女の子に出会った。抜けるような色白で、眉も薄くて目も小さかった。鼻もこぢんまりとした造りでソフビ人形みたいに鼻腔が開いているのか分からない位小さかった。唇も薄くてやはり小さくて可愛かった。目鼻など全部のパーツがとても遠慮深かくできていたのだ。顔が薄いとでも言えばよいのだろうか。目の小さくなったお化けのキャスパーの様でもあった(ごめん....)。表情筋がゆっくりと動き、白い皮膚の表面に大味な表情をつくりだすのだが、スプーンでゆっくりとかき混ぜたポタージュスープの表面みたいでトロリとしてメリハリがなくて今一つ感情が読み取りにくかった。まるで冒頭の平仮名ばかりの文章みたいにね(これが言いたいばかりに頑張って全部平仮名にしたのだ...ふぅ)。

 オールオーバー系の抽象表現主義の絵をみるとなぜかその子の淡白な顔を思い出す。それから心霊写真といわれるものを前にして極々当たり前の風景の中に顔などの具体的イメージを探す人のように大味な表情筋のうねりの中に沈み込みそうになる彼女の感情を何とか読み取ろうとしていた自分を思い出す。そして抽象表現主義(とりわけJ・ポロックの絵画に関して)のイメージと均質化を巡る僕の考察は彼女の白い顔が出て来ていつもそこでフリーズしてしまうのだ。


■それで

 で、顔についてだが、人はどのような脳内の回路を経てある画像を「顔」であると認識するのだろう。そのことについて少し調べてみたけれど、機械的な顔認識システムでは顔に幾つかの特異点を規定してそれらをグループ化し、そのムーブメントを解析して「顔であること、そして特定の個人の顔」であることを認識するらしい。これが人間の脳での認識システムと同じかどうかは知らない。難しいことは分からないけど経験として黒い点が三つ逆三角形の構図であれば「顔」のように見えることは僕も知っている。「顔」はそうした特異点によって顔としてイメージが強化されるようだけども、「表情」の発生という点ではむしろ筋肉の運動が先駆けている。目や口が表情をはっきり輪郭付けして記号化する以前に皮膚の下でイメージを結ぼうとして筋肉はうねりだしている。例えば笑う人の顔をビデオで接写しスローモーションで再生してみると眼球はまるで表情筋の波に乗るサーファーみたいにみえる(フランツ・ハルスの描く表情豊かな男の顔の絵なんかもそんな感じがする) 。

 昔とあるCMに「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」という台詞があったが、「タブローに顔があっても良いじゃないか」といってみたりする。バロック絵画が自意識の絵画として、一種トロンプルイユのアレンジされた手法として画中に鏡を描き込むことで内部に入り込んだ鑑賞者の視線の回路を撹乱、タブロー自体が「鑑賞者を見返す」円環構造の視線を獲得したたことを思えば、眼球をタブローに与えるのも一興ではないか?タブローを見るものはタブローに見つめ返されるのだ。いや冗談じゃなくて。


■ということで
 
 今更ながらの地味な切り口ではあるが絵画の表面(surface)とイメージ(face)の表出を巡る考察の絵画という線でいくことに決め【RUB-HI face/surface】のシリーズを始めることにしたのだ。

 表面(surface)の考察なくして絵画無しなとどというつもりは毛頭無く、人間の関わるあらゆる事象が絵画のエレメント足りうることも承知の上だけれども今僕の興味の中心は表面(surface)の考察にある。だから、そこが全ての切り口、まさしく個人的理由、簡単に言えば趣向の問題として。 

 このシリーズではface/surfaceの拮抗(それとも乖離?)する場としての自己批判を含んだバロック的(RPGじゃないよ)な装置としての絵画を計画したいと思っている。テーブル(table)に乗ったカップとタブロー(tableau)に描かれたカップがひとつの仮定されたシリアスの内に反発しながらも相互交換をしているような場を。

 今回のシリーズは例によっての容器(カップ状)のマニエラ絵画だが「絵具のストローク/表情筋のうねりらしきもの」「伏せられた2個のカップ/眼球らしきもの」「支持体」の三つのエレメントを使っての表現。これはルヴハイの初期(96年〜00年)の「絵具で描いた/黄色い液体らしきもの」「置かれた絵具/カットアウトの人型」「変形キャンバスの支持体」の三つのエレメントで構成されたシリーズの絵画の別の面からの展開といえる。とてもミニミニな個展だけど中身は(たぶん)濃厚な覚醒Vol.0、一応新シリーズの誕生なのだ。よかったらみてね。
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