生々しき空像
2007.7.17(tue)−7.28(sat)
ギャラリーなつか&b.p

現代の身体イメージはいかなる局面を見せているのか。現実のリアリティを確からしいものとして持てない中、記号化され、不可視のものとなりながら、逆にフィギュアのように表象じたいが実体化してゆく。その傍らで極度のリアリズムへと反作用のように向かいながらも、それはかつての身体への帰還ではなく、その過剰な表現はシミュラークル(模擬物)としてのそれだ。このような二極の合わせ鏡の中で浮遊しているのがわれわれの現実の身体なのだが、ここに紹介する歩み始めた若い二人の絵画・インスタレーションの制作者はどのような表現を示すのだろうか。

樫木知子の絵では木地にジェッソとアクリルで描き、サンダーで磨くことで得られた余白を持った平滑な面上に、多様にして微細な形が折り込まれる。女や物象の描写は中途で留め置かれ、地に溶けゆき、異様の形は重なり、共存していく。そしてそのネットリとした肥痩のある描線、あるいは鉛筆などによる細線といった、様々の描写様式の混在は我々の感覚の統合をあわただせるのだ。さらに型を使ったカーボン描きによる反復を施し、画面はことの外、錯綜する。その艶やかなヴェール状のイメージの覆われの中で、いわば部分部分のエピソードを我々は発見していくことだろう。よく見ればところどころに窪みを持ち、実際の繊維やテープ、果てはあろうことかクマの顔までが隠し画のように貼られ紛れている。イリュージョンとして描かれながらも、具体的な物としての地平面上の奇妙な細部の併存。描かれたイメージは出来(しゅったい)し、また地に消えてゆく。流出的な画像は触覚性に訴えるだろう。人が立つ、あるいは横になる。物語性を漂わしながらも、それは絵画面じたいの物象化かも知れないのだ。「女」は透いてそこに在る。覗き見、そして手足を複雑にうちふるわせながら、その薄い界面のあいだから流出しようとしている。その絵画の界面の姿は薄い、がしかし作品は肉感性を捨ててはいない。その色感ある装飾的才は趣味性にも近づきやすいのだが、これは単なる少女でもなければ、幽霊でもない。しかしそれは本質的に幻像(ファンタスマ)なのだ。
坂本千弦は描くことを通しての内側と外部とをつなぐ表出的な地点を探ってきた。そこではラテックス(ゴム)を線状に絞り出して、ある形態を創出するのだが、それはこれまで連続的な円形の連鎖による紋様や、内臓のような見えない内なる他者の姿形を取ることが多かった。有機的なもののまさしく生成と現れとして在るのだが、それは不可視のものの外形なのか、あるいは反転した内側なのだろうか。フェティッシュな肉感を持ちながらも常に遠い存在。それは薄い立体像あるいはその面としての張り付けとして存在している。今回はその薄い描写的な面の集積から成っている作品は、甲冑か髪飾りのような具体的な包み込む立体的なイメージとして現れようとしている。あるいは紫の天蓋のように垂れた下は空位の座として留めおかれているのだろうか。

別々の表現手法を取る、未だ東西の別々の大学院に在籍している彼女たちは、当然ながらの危うさと可能性をふたつながらに持ち合わせている。
両者ともに絵画から出発しながらも、タブローとインスタレーションという表面的な差異を越えて、ともに細部から始まる平滑なイメージの覆われ。それはかつてのフェティッシュな物質性ではないだろう。受肉は半透明な積層においてなされる。そこに確からしい物性や具体的な物語りは見いだせない。しかし具体的な表象は、仮初めの像、差し当たっての物語りはわれわれに様々のイマジネーションを突き動かす薄さなのだ。それはある生々しさを持つ「気化しつつある女」であるだろう。

天野一夫(美術評論家・京都造形芸術大学芸術学部教授) 



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